古書は語る 〜館蔵の江戸文学資料を中心に〜

【特集】元禄期の絵入読本、浮世草子を楽しむ

大正時代、汽車の中で乗客たちの本を読む声がやかましい、という新聞投書があったそうだ。ことほどさように我々の先人たちは読書の際に音読をした。江戸時代の前期から中期にかけて数多く刊行された浮世草子は、同時代の風俗描写を主眼に置いた読み物で、いわば日本最初の大衆小説である。ぜひ音読して昔の読書をしのんでいただきたい。  それから、文字の大きい、目に優しい本であったことにも注目していただきたい。これ以後、書物の1頁あたりに収められる文字数は、現代に至るまで右肩上がりで増え続ける。この時代の書物の、少ない文字の容量は、必然的に文学における描写のあり方を規定した。つまりくだくだしい描写はやりたくとも出来なかったことがわかる。

西鶴織留

大本 6巻6冊元禄某月某日、難波西鶴自序。 元禄七年卯月上旬、団水序。

元禄七年(1694)三月、万屋清兵衛(江戸)・雁金屋庄兵衛(大阪)・上村平左衛門(京) 刊。

(岡谷文庫 913.52/I)

西鶴死去(元禄六年八月)後に刊行された遺稿集のひとつ。23の短編を収録。前半(副題「本朝町人鑑」)は、遊郭通いが幸いして思わぬ成功をする造り酒屋の惣領息子など、町人を主人公に家の盛衰を軸とした話が続く。後半(副題「世の人心」)では、大名屋敷の家来・医者・職人・質屋・下女・官女・腰元・乳母と様々な身分・職業の人々が登場し、当時の世相が生き生きと描かれている。

(巻4の3「諸国の人を見知るは伊勢」14ウ・15オ)

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世間胸算用

大本 5巻5冊元禄五申歳初春、 難波西鶴自序。

内題:胸算用。元禄十二年(1699)八月、 万屋彦太郎(大阪)刊(元禄五年初版本の再版本)。

(岡谷文庫 913.52/I)

『世間胸算用』は、副題に「大晦日は一日千金」とあるように、大晦日の一日に焦点をあて、金銭に翻弄される町人生活の悲喜劇を描いている。当時、大晦日は一年の総決算日で、様々な掛け売りのつけを払ったり、また売り掛け金を回収しなければならない。そのような大変な一日に集約される人とカネとのかかわり方を、ハナシの技法を駆使して描いた西鶴最高傑作の一つ。

(巻1の3「伊勢海老は春のモミジ」13ウ・14オ)

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傾城禁短気

横本 6巻6冊(巻4・6欠)宝永八年卯月中旬、 作者八文字自笑自序。 [宝永八年(1711年)卯月、八文字屋八左衛門(京)刊]  (岡谷文庫 912.52/H)

江島其磧作。全6巻のうち、1~2巻では宗論になぞらえた男色・女色優劣論。3巻では説法になぞらえ各地・各層の非公許売色者の様相を、4~6巻では説法になぞらえ吉原(江戸)・新町(大坂)・島原(京)の遊女と客との駆け引きや遊びの種々の様相を述べる。諸色道を集成し、趣向の奇抜さ、構成の巧みさで西鶴以後の技巧重視の浮世草子を代表する作品。

(巻1の2「三野の女郎安心の身請」13ウ・14オ)

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本朝智恵鑑

大本 6巻6冊宝ながき宝珠の牛のむつましき年(宝永六年・1709)の弥生長閑なる日、洛陽滑稽堂のぬし団粋自序。正徳三年(1713)正月、出雲寺和泉掾(京師三条通・江戸日本橋)刊。

(岡谷文庫 913.52/H)

知恵に関する中国の故事類を集めた先行書『智恵鏡』をまね、日本の知恵者に関する話を集めた短編集。

その内容は教訓的であり、仏説を多く含む。作者である北条団水の没後に刊行された。

(巻4の6「夜盗を謀る機転の事」19ウ・20オ)

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当世御伽曽我

大本 5巻5冊(巻1欠)[正徳三年(1713年)]、八文字屋八左衛門板 刊。 [作者江島其磧]

(岡谷文庫 913.52/H)

日本三大仇討ちの一つ、「曽我兄弟の仇討ち」を題材としている。『当世御伽曽我』では、曽我兄弟の産まれる前の、仇討ちの原因となった争いや、兄弟の出生と成長の逸話が中心である。兄弟の実父、河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)は、領土をめぐる争いにより、弟工藤一臈祐経(くどういちろうすけつね)によって暗殺される。祐泰の子、一幡丸(後の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり))と筥王丸(後の曽我五郎時宗(そがごろうときむね))は、曽我家の子となったが、実父の仇討ちの思いはどんどんと強くなっていく。其磧(推定)作の長編時代物浮世草子。後編は『風流東鑑』として刊行された。

(巻3の4「水上は泪の雨古郷の母の煩ひ」23ウ・24オ)

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風流東鑑

大本 5巻5冊正徳三年(1713)三月、八文字屋八左衛門新板 (京)刊。 [作者江島其磧]

(岡谷文庫 913.52/H)

『当世御伽曽我』の後編。 筥王は、父の弔いのため出家をしていたが、仇討ちをするために勝手に還俗し、怒った母から勘当されていた。建久4(1193)年5月、富士山山麓にて狩が行われることになり、ようやく兄弟に、祐経暗殺の機 会が到来する。筥王は武士として元服し、母も、命より名誉を重んじる武士道を理解し、和解する。兄弟は長年の本望を達成する。

(巻8の4「夜廻りの拍子木打ちたり敵」24ウ・25オ)

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世間娘容気

大本 6巻6冊 (巻5欠)享保二年中秋吉旦、 作者其磧自序。 享保二年(1717)八月、 谷村清兵衛・江島屋市郎左衛門 刊。(岡谷文庫 913.52/E)

「気質物(かたぎもの)」は浮世草子の分類のひとつで、代表的作家である江島其磧は、『世間子息気質』をはじめとして多数の生彩を放った気質物を描き好評を博している。『世間娘容気』では、町人の娘を素材として、様々な「ムスメ」像を誇張して面白おかしく描かれている。その中に女性観、女性の社会的地位やモラルが浮かび上がる。また、若い女性に共通した感覚は、現代にも通じるものが随所に見られる。

(巻1の1「男を尻に敷金の威光娘」5ウ・6オ)

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浮世親仁形気

横本 6巻6冊(巻4・6欠)横本 5巻5冊  鶯のはつ子の日、 作者 江嶋其磧・八文字自笑自序。

享保五年(1720)正月、 八文字屋八左衛門・ゑじま屋一良左衛門 刊。

(岡谷文庫 913.52/E)

『世間子息気質』『世間娘気質』に続く、江島其磧作の気質物。15の短編からなる。力自慢で相撲に凝る親父、子供自慢で張り合う親父、いかさま医者にだまされ高額な寿命薬を買わされる吝嗇家の親父、兵法に凝る刀屋の親父など、さまざまな一風変わったオヤジの性癖を「気質」として誇張し、こっけいに描く。

(巻5の3「老を楽しむ果報親父」14ウ・15オ)

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女曽我兄弟鑑

大本 5巻5冊(巻3一部欠)めでたい年の始、作者自笑・作者其磧自序。 享保六年(1721)正月、八文字屋八左衛門・江嶋屋一郎左衛門 刊。 (岡谷文庫 913.52/H)

周防の国(今の山口県)の大名、大内義隆は家老の陶(大膳)晴賢に謀られて打ち滅ぼされ、義隆の一子、義丸君を守り育てていた妻籠勘介も陶の家来に切り捨てられる。勘介の娘の千どり(朝倉)とおてふ(八千代)の姉妹は、それぞれの亭主の協力もあって、共に力を合わせて親の敵討をする。また、陶は主君の仇でもあることから夫婦4人は先代の旧臣達と敵討を計画し、陶が不老不死の薬を求めていることを知り、策略をめぐらして船上にて見事、仇討を果たす。その後は義丸君の世となって、めでたし、めでたし。

(巻5の2「謀はおもふ図にのつて来る大船」8ウ・9オ)

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日本契情始

大本 5巻5冊  栄ゆく花の三月、作者自笑・作者其磧自序。 享保六年(1721)三月、江島屋一良左衛門・八もんじや八左衛門 刊。 (岡谷文庫 913.52/H)

鳥羽の院にとりついた妖狐を退治した三浦ノ介義孝が、宮中から千歳を妻に与えられるというところから物語りは始まる。元白拍子の千歳は以前から義孝の弟、和田五郎と夫婦の約束をしていた。五郎は家のため、兄のためを考えて二人の関係を断ち切ろうとするが不首尾に終わる。五郎は自ら不行跡を起して、兄から勘当され、国を追われることに成る。この兄弟間の義理と人情の世界に、遊女となって主に尽くす和歌の前を登場させて、遊郭の成り立ちと、「くるわ」における微妙な男女の関係を描きつつ、兄弟の仲を円満に解決し、五郎と千歳が結ばれるという話。

(巻4の1「寡男は聞伝に金銀持て廓の始」6ウ・7オ)

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西行撰集抄

半紙本 9巻合5冊 (小林文庫 913.41/Sa)

「挿絵画家、西鶴」  西鶴は器用な人で、絵をよくした。絵俳書、俳諧の自画賛、それから処女作『好色一代男』をはじめとする自作の浮世草子のうちのいくつかに、ユニークな絵を残した。この『西行撰集抄』の挿絵も、独特の画風から西鶴の手になるものと推定される。  『撰集抄』は西行に仮託された中世の説話集で、江戸時代には西行の作と信じられた。西鶴同世代の芭蕉の愛読書でもあった。掲出の図版は、西行が高野山で死者の骨から人造人間を作るという不思議な話。その他の挿絵の中には、西鶴と同時代の風俗で描いたものが見られる。そのことは、古典を過去のものとして突き放すのではなく、何かしら同時代的な文学として享受していたことを如実に物語っている。  本書は貞享4年(1687)5月、大阪の河内屋善兵衛という版元から刊行された。この河内屋は『往生要集』(貞享2)・『小学句読』(貞享2)・『科註妙法蓮華経』(貞享3)・『盂蘭盆経疏新記』(貞享3)・『平家物語』(貞享3)・『近代艶隠者』(貞享3)の刊行書が知られるが、このうち『近代艶隠者』は西鶴門人西鷺の作で、本文の版下も挿絵も西鶴が書き与えている。西鶴と親しい版元であったらしい。  実は大阪の出版の歴史は浅く、始まってからこの時点でまだ十数年しか経ていない。出版のメッカ京都に比べてひどく劣勢であった。それがこの時期、京都に対抗するかのように、『太平記』『平家物語』『沙石集』等々、過去に京都で刊行された古典類が盛んに大阪で刊行される。この『撰集抄』大阪版の背景にもその流れがある。  ところが結局、大阪の地での古典刊行は成功しなかった。そして、大阪の出版界は新作の実用書および西鶴本を軸に発展するに至るのである。そのように、大阪の出版界の動向と西鶴とは密接な関係にあった。

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