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番号 | 質問 | 回答 | 回答プロセス | |
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田中吉政が岡崎城主だった時代の家臣の名前、記録、家系図を探している。 | @「岡崎市史2巻」p48 家老の名前あり A「新編岡崎市史3巻」p11 家臣の名前あり |
郷土標目(郷土資料検索用システム)で「田中吉政」を検索し、参考資料をあたる。 ほとんどの資料が吉政の「城下町建設」の功績が中心。「新編岡崎市史3巻」に「吉政の家臣団の全容もさだかではない」との記載あり。 家臣の名前以上の詳しいことがわかる資料を見つけるのは困難だと思われる。 |
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2 | 徳川家康の長男松平信康の子女・女孫(特定人物)の名前と亡くなった年を知りたい。 | 子女 とく (登久姫ともあり・小笠原秀政室) 慶長十二年十月十八日逝去
国姫 (熊姫・妙光院・本多忠政室) 寛永三年六月二五日逝去 孫(忠政−国姫の娘) 円照院華賜宗月大姉(法号のみ判明) 寛永二十年十月十八日逝去 |
様々な系譜・家康関係の資料を見るが、「女性」に関しては詳しく記載のあるものは比較的少ないように思われる。
2人の子女に関しては『徳川諸家系譜第2巻』P28、『戦国大名系譜人名事典』P543、『戦国人名事典』P199・P706(小笠原秀政室・本多忠政室でひく)に記載あり。 孫に関しては『家康の族葉』P641に記載あり。 |
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3 | 志賀重昂の「三河男児の歌」の漢詩碑の全文が、写真または拓本で収録されている資料があるか。 | 「愛知の文学碑」p.245に掲載の碑の写真と読み下し漢字かな混じり文が所蔵資料の中で最も大きかったが、もっと大きなものが必要であるということで、岡崎市郷土館に問い合わせる。岡崎市美術博物館の収蔵庫に、拓本の軸装があり、目的によっては文書申請により複写が可能である旨、伝える。 | まず、文学碑についての資料をあたったところ、写真が掲載されているものはあったが、小さい写真が多く、「愛知の文学碑」の写真が最も大きい。志賀重昂の関連資料、郷土の歌についての資料を見たが、該当の資料は見つからなかった。 | |
4 | @西尾鉄道西尾線(新安城-吉良吉田)、A平坂支線(西尾‐港前)、B旧西尾線(岡崎‐西尾口)、C福岡挙母線(上挙母-大樹寺-福岡町)、D門立(もだち)支線(三河岩崎(崎ではなく脇?)-門立) 以上についての鉄道路線の載っている資料がみたい。 |
各路線図は、以下の資料に掲載あり。 @「名古屋鉄道百年史」p.145に、今村-吉良吉田間あり。 A「名鉄の廃線を歩く」p.106に、西尾-港前間あり。 B「名鉄の廃線を歩く」p.131に、岡崎‐西尾口間あり。 C「名鉄の廃線を歩く」p.115に、上挙母-大樹寺間、p.122に大樹寺-福岡町間あり。 D「名鉄の廃線を歩く」p.115に、岩脇-門立間あり。 |
西尾鉄道について「新編 岡崎市史 20 総集編」で調べる。西尾鉄道は、大正期の岡崎・西尾間の鉄道であり、大正15年に愛知電機鉄道に合併、その後、名鉄西尾線と呼ばれていたことがわかる。地域資料コーナーの鉄道関連の書架(A686)から、参考資料をあたり、路線図を探した。 | |
5 | 法蔵寺にある、近藤勇の首塚の写真が載った資料が見たい。 | 「歴史ウオッチングPart1」p.152に白黒写真、「図説新選組」p.97に小さいがカラー写真が掲載されている。 | 岡崎の寺院ということで、「岡崎 史跡と文化財めぐり」(岡崎市発行、2003年)の法蔵寺の項目を見たが、写真はない。 郷土標目(郷土資料検索用システム)で「法蔵寺」を検索し、以下の参考文献をあたる。 @パンフレット資料「近藤勇の首と法蔵寺」(松井弘) A「歴史ウォッチングPart1」 @は、新聞のコピーのため、写真があまり鮮明ではない。Aは白黒ではあるが、鮮明で解説あり。 「新選組」というキーワードで、書名検索し、該当の資料の内容を調べる。 |
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6 | 戦前の岡崎市立図書館の位 | 岡崎公園内西北隅にあり。 | 「岡崎市立図書館竣工式記念雑誌」p.10より、岡崎公園内にあったことはわかるが、正確な位置の記載はない。「愛知県岡崎地方史文献総覧」p.101に、「岡崎市(大正11年)」からの引用で、岡崎公園内西北隅という記述あり。また、「岡崎市都市計画資料」の公園計画の項目に岡崎公園の図があり、公園内の西北隅に図書館が記載されていた。 | |
7 | 内田武志氏について書かれた | 「菅江真澄顕彰記念誌」のp.15〜29『菅江真澄への歩み』(内田ハチ著)と「菅江真澄研究6号」掲載の『霊魂の行方−内田武志の真澄研究−』(永井登志樹著)を紹介する。 | 「内田武志」で書名検索をして「真澄研究6号」で内容細目登録してあった「霊魂の行方」がヒットした。また氏から複製資料を寄贈されているため当時発行の記念誌を見てみると氏の研究の手助けをしていた妹ハチ氏が書いた文章があった。 | |
8 | 石工の定義及び石工の使用する道具についての資料が見たい。 | 石工の定義については参考資料『石の匠』のあとがきに「石屋」の種類が載っておりこれを紹介。
石工の道具については『石都岡崎石とともに生きる』p.78〜81 『新編岡崎市史 民俗 12』p.565〜568に記載があり。 |
地域資料「岡崎学」コーナーの伝統産業の棚で石工業関係(分類:AO589)の資料から探す。また石彫についての資料(分類:A710)も見てみる。
郷土標目(郷土資料検索用システム)で「石製品・石工業」を検索し、該当の資料をあたる。 |
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9 | 岡崎市西本郷町和志山にある古墳が陵墓参考地から「五十狭城入彦(イサキイリヒコ)の墓」とされたのはいつからか? | 明治29年に「五十狭城入彦皇子」の墓の伝説地として宮内庁の管理に移り昭和16年4月に墓として定められた。 | 「新編岡崎市史 総集編」の「和志山古墳」の項目には明治29年に陵墓参考地となった旨の記載はあるがそれ以降の経緯はなし。郷土標目(郷土資料検索用システム)で「西本郷古墳群」「和志山古墳群」を検索し、参考資料として登録されている「岡崎市史 矢作史料編」を見る。墓の沿革についての記載は「昭和16年4月御墓に御治定せられたとあり」となっている。 |